地名に残る瑞穂の歴史
更新日 平成29年3月1日
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殿ケ谷村(現殿ケ谷地区)
江戸時代前期の古地図には殿ケ谷の地名はなく、絵図上の当該地点には村山村と記されています。
そのため、中世まで当地は中世郷村としての多摩郡村山郷の一部だったと思われますが、江戸時代前期に現箱根ケ崎地区に箱根宿が成立して村山村の人口が増加したため、寛文8年(1668年)の検地をもって村山村から分村したようです。
現殿ケ谷地区の瀧田谷津・尾引谷一帯に、戦国時代末期、北条氏照に仕えたという村山党金子氏の一派村山土佐守義光がこの辺り一帯を治め、居館を構えたという伝承が残っています。
そのため、殿ケ谷と呼ばれるようになったといわれています。
石畑村(現大字石畑、武蔵、むさし野地区)
耕地に多数石が含まれていたことを想定させるような地名ですが、正確な由来は不明。
江戸時代前期の古地図には石畑の地名はなく、絵図上の当該地点には村山村と記されています。
そのため、中世まで当地は中世郷村としての多摩郡村山郷の一部だったと思われますが、江戸時代前期に現箱根ケ崎地区に箱根宿が成立して村山村の人口が増加したため、寛文8年(1668年)の検地をもって村山村から分村したようです。
もともと石畑とは、石畑村の小字名であったが、のちに村名となりました。
箱根ケ崎村(大字箱根ケ崎、箱根ケ崎西松原、箱根ケ崎東松原、南平地区)
語源は、古語で「ハコ」は神の棲む、「ネ」は山を意味するという説があります。
この地区にある狭山池は、中世までは今よりもずっと広大で、面積は10町(10万平方メートル)以上もあったといわれ、狭山丘陵の西端に位置することから、後世鎌倉街道と呼ばれるようになった古街道が通っていました。箱根ケ崎の名称が古文献に現れるのは、戦国時代後期の天文年に北条氏照が発したに「筥根賀崎」と書かれています。
しかし、江戸時代前期の古地図には箱根ケ崎の地名はなく、絵図上の当該地点には村山村と記されています。
そのため、中世まで当地は中世郷村としての多摩郡村山郷の一部だったと思われます。
慶安5年(1652年)に八王子千人同心の日光勤番が始まると、同心達が日光へ往来するための勤番経路として日光街道が整備され、その沿線上に位置した箱根ケ崎村は、幕府より人馬の継立てを命じられ日光街道の旅人の往来が活発となり、箱根宿として発展しました。
このため、村山村の現箱根ケ崎地区に人口が増加し、寛文8年(1668年)の検地をもって村山村から分村したようです。
高根村(現高根地区)
江戸時代以前の中世期には中世郷村としての入間郡宮寺郷の一部であったといわれ、高根地内の墓地には、中世石造物である板碑が現存していることから、瑞穂町域の狭山丘陵北麓では古い集落と思われます。
高根が集落名として文書などに現れるのは、江戸時代前期からです。
高根の名称の由来は2説あり、一つは、狭山丘陵の現高根一帯は最も地形が高くみえるためという説、もう一つは、かつて高根明神という神社が狭山丘陵の中腹にあり、その神社名が起源という説があります。
駒形村(現駒形富士山地区)
駒形という地名の由来は、集落域内にある小丘上に神社があり、その一帯の地形が駒の形に似ているため付けられたといわれています。この小丘は、現在駒形山といわれています。
中世期には入間郡宮寺郷の一部であったといわれ、駒形が集落名として文書などに現れるのは江戸時代前期からですが、江戸時代以前の集落の様子はよくわかっていません。
坊村(現駒形富士山地区)
坊という名称の由来は、現入間市二本木にある長福寺は、かつて坊村の集落域にあり、これを俗に大坊と称したことからといわれています。
長福寺は、江戸時代前期に日光街道の整備に伴い二本木村が宿を形成し、人口が増加したことから、坊村より現在の地に引寺されました。
中世期には、入間郡宮寺郷の一部であったと思われ、そのため、坊村の領域は現入間市二本木の一部を含みます。昭和33年、瑞穂町と元狭山村が合併した際、村の東域が瑞穂町へ分村合併しました。瑞穂町分を俗に駒坊ともいいます。
二本木村(現二本木地区)
地名の由来は、現在の瑞穂第三小学校付近の高台を榎台といいますが、ここに二本の榎があったという伝承があり、そのため二本木と名付けられたという説があります。
江戸時代の古文献によると、二本木村はもとは中世郷村の入間郡宮寺郷であったといわれています。
この名称は天正十八年(1590年)の古文書に現れるため、中世末期頃には集落形成されていたと思われます。
その後、慶長一九年(1614年)に青梅新町を拓いた吉野織物部助が、新町から二本木を通って扇町屋(入間市)方面へ川越道を開きます。その40年後、慶安5年(1652年)に八王子千人同心の日光勤番が始まると、同心達が日光へ往来するための勤番経路として日光街道が整備され、その沿線上に位置した二本木村は、幕府より人馬の継立てを命じられ日光街道の旅人の往来が活発となり、二本木宿が形成されました。
このため、もともと高根村にあったという寿昌寺や、坊村にあったという長福寺は、二本木宿の形成に伴い人口が増えたため、現入間市二本木の現地に移動したといわれています。
明治28年、高根村、駒形村、坊村、二本木村、富士山村は元狭山村となります。その後、昭和28年市町村合併促進法の成立に伴い、昭和33年に元狭山村の南域が東京都瑞穂町と合併しました。
江戸時代前期に成立した村
富士山村(現駒形富士山地区)
伝承では、豊臣秀吉の馬廻り七手組の驍将、真野豊後守の流れを汲む大阪城の落武者が、富士山地区で帰農し開村したとされています。江戸時代初頭に開かれたいわゆる古新田集落と思われ、宝永五年(1708年)年頃の古文書には「富士山新田」という村名で記されています。
現箱根ケ崎浅間谷の奥にある浅間神社は、もとは富士山村の鎮守であったとされ、当初社殿は富士山側の北を向いていたといわれています。社殿のある位置は富士山村と箱根ケ崎村の境界上に位置していたため、18世紀初めに富士山村と箱根ケ崎村で帰属争いが起きました。
幕府に裁定を依頼した結果、箱根ケ崎村に帰属するものとされ、それ以来社殿の向きが南の箱根ケ崎方面に変えられたとされています。参道から社殿を結んだ延長線上には、富士山が望めるといわれています。
江戸時代中期に成立した村(新田開発村)
長谷部村(現長岡長谷部地区)
江戸時代中期、8代将軍徳川吉宗の新田開発奨励をきっかけに、入間郡扇町屋村出身の長谷部吉左衛門が開発発起人となり、開かれた新田集落です。
開発発起人の苗字が村名の由来です。発起人の出身地から、当初は扇町屋新田ともいわれました。
吉左衛門は享保九年、北武蔵野扇町屋ほか七百町歩の新田開発を申し出て、その中の秩父街道(現岩蔵街道)と青梅街道(現新青梅街道)間の新町野(青梅新町村東側)分を名主として弟勘次郎に託し、開発させました。
享保一三年頃には、秩父街道北側にも出百姓が入村しました。この秩父街道の北側には、七軒の出百姓家屋敷があったことから、七軒新田とも呼ばれました(現在の水保町)。
通常新田区画は、短冊状地割の端部に屋敷を構え、反対側に林地、屋敷と林地間に耕地を設定するが、長谷部村は開発地の中央に東西方向の道を開き、新道沿いに屋敷を置き、屋敷の南北に耕地・林地を設定していたところが特徴です。
当時の短冊状の地割りが、いまでも良く残っています。
下師岡村(現長岡地区)
江戸時代中期、8代将軍徳川吉宗の新田開発奨励をきっかけに、江戸時代前期に青梅新町を開いた吉野織部助の子孫である、吉野彦右衛門が開発名主としてひらいた新田集落です。吉野彦右衛門は当時師岡村・野上村の名主をしており、このほか大門村、今寺村の名主が連名で享保十年(1725年)幕府に開発を願い出ています。
当初は師岡村・野上村・大門村の持添新田として、それぞれ下師岡新田、野上新田、大門新田の三新田に分かれていましたが、新田開発を始めてから約20年後の寛延二年(1749年)に三新田は統合し、下師岡新田の名主が代表者となったため、下師岡村となりました。
現在は、旧村範囲の大半が区画整理され、現代的な町並みとなっています。
富士山栗原新田村(富士山栗原新田)
江戸時代中期、8代将軍徳川吉宗の新田開発奨励をきっかけに、寛保二年(1742年)に富士山村名主七右衛門を中心として、長谷部新田名主勘次郎、扇町屋村三人、栗原二人の連名で幕府に開発を願い出されました。
長谷部新田、下師岡新田開発の20年ほど後、いわゆる爆発的な享保の新田開発が一段落したころ、開発が始まりました。
この新田の特徴は、その耕地所有が、開発発起人の本村所有(持添えという)と、開発地に入村した百姓(出百姓)に分け与えられた所有地に分かれていたところです。当初は、親村である富士山村名主七右衛門が名主を兼ねていましたが、明和六年(1769)に七右衛門が亡くなると、新田百姓の喜兵衛が名主となりました。
その後、寛永五年(1793年)に、公文書に必要な御焼印札を親村の富士山村名主より受け取り、この時事実上一村独立したものと思われます。
一見、新田村の特徴である当時の短冊状に地割りされているように見えますが、その土地所有は細分され、複雑に入り組んでいました。
いまでも新田当初の土地区割りが良く残されています。
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