瑞穂町の歴史
更新日 平成29年3月1日
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(1)旧石器時代(約3万年前から1万2千年前)
当時は今よりも気候が寒冷な氷河期で、針葉樹林が広がり、ナウマン象などの大型草食獣が生息する環境でした。
(2)縄文時代(約1万2千年前から2300年前)
氷河期が終わり、気候が温暖になり、針葉樹林は広葉樹林となりました。大型草食獣は、姿を消し、森林に適したシカやイノシシなどの小型草食獣に取って代わりました。狩猟には、より速射性の高い弓矢を使うようになり、動きの素早い小型草食獣に対応しました。煮炊具として土器を使用するようになり、広葉樹に実る果実を採集し、土器であく抜きをして食用としました。
こうした豊富な森林資源を背景に、森林の中に集落を作って狩猟・採集を中心とする定住生活を行うようになりました。
瑞穂町では、狭山池の周辺の狭山遺跡で竪穴住居が発見され、縄文時代中期集落の存在が明らかとなりました。また、狭山丘陵中腹の六道山遺跡では、石鏃を初めとする多数の石器と、狩猟用の陥穴が発見されています。
(3)弥生時代(約2300年前から1700年前)
縄文時代の終わり頃は、一時的に気候が寒冷化し、植生に変化が起きて森から得られる恵みが減少し、人口が減少しました。
その後朝鮮半島から北九州に稲作が伝わり弥生文化が成立し、西から東へ少しずつ弥生文化が伝播しました。
弥生文化が東日本発展するのは弥生時代後期になってからです。
瑞穂町では、弥生時代の集落は発見されていませんが、前述の狭山遺跡から、弥生時代中期から後期の土器片が出土していることから、弥生時代に狭山池のほとりに弥生人が訪れたことはあったようです。
(4)古墳時代(約1700年前から1400年前)
古墳時代は、大規模な前方後円墳に代表されるが、これは当時の有力豪族の墳墓であり、この付近では埼玉古墳群が有名です。埼玉古墳群は、5から6世紀、武蔵国一帯を支配していた有力豪族の墓です。瑞穂町には同時期の遺跡は発見されていません。
こののち、古墳を構築する風習は、より身分の低い支配者層にも広まり、直径10メートル強、高さ1.5メートル程度の小円墳が多数まとまって造られるようになります。これを後期古墳、群集墳などといいます。
現在、瑞穂町域には発掘調査などの結果、確実に古墳とされる遺跡はありませんが、加藤塚や石畑神明神社にはかつて塚があったといわれ、それらは後世の人が古墳を墓や神社に転用したという説があります。神明神社境内には、今も樹齢千年以上とされるケヤキがあり、加藤塚の塚上にも大ケヤキがありました。古い樹木の存在は、塚が古くから存在したことを伺わせます。
仮に古墳が存在したとすると、周辺に墓を造成した人々の集落の存在が予測されますが、現在のところ集落遺跡は発見されていません。
しかし、狭山池東の狭山遺跡で、狭山池の東岸から東へ続く人口の溝が発見されています。水田開発などで池水を利水する目的で開鑿されたと思われまs溝は長期間使用された痕跡が見られず、その効果は明らかではありません。
(6)古代(奈良・平安時代、約1350年前から800年前)
古代の武蔵国には、現府中市域に朝廷の統治機関として武蔵国府がおかれ、国分寺市には国分寺が建設されました。しかし、瑞穂町の古代の様子は、情報が少なく、ほとんどわかっていません。
しかし、延長5年(927)に完成した『延喜式』という古代の行政制度について記された書物の神名帳によれば、当時多摩郡内で由緒正しく格式の高い神社として、「阿豆佐味天神社」という神社名が挙げられています。この神社は、ほかに古い類社が見当たらないことから、現在の定説では殿ケ谷地区の阿豆佐味天神社に比定されています。
かつて、狭山丘陵を含む神社一帯で開発・入植行為があり、その人々の守り神として設置されたものと考えられています。いずれにしても、古代の瑞穂町に阿豆佐味天神社が存在したことは明らかであり、当時それに関わる人々が生活していたことを伺わせます。
(7)中世(鎌倉・南北朝・室町・戦国時代、約800から400年前)
中世の武蔵国は、武蔵七党とよばれる武士団が活躍する時代でした。鎌倉幕府成立に際しては、関東武士が大いに活躍し、幕府の要職を占めました。その後、1333年に鎌倉幕府が滅び室町幕府が成立するが、関東には小幕府ともいうべき鎌倉府が置かれ、政権は安定しませんでした。
そして、15世紀半ばには、他地方に先んじて戦国時代を迎え、関東武士は合従連衡を繰り返します。16世紀になると後北条氏が南関東から勢力を広げ、16世紀後半には多摩地方は後北条氏の支配下に置かれました。
いまも殿ケ谷地区一帯には、戦国時代後期(16世紀後半)に後北条氏麾下の村山党金子氏の一派である村山土佐守義光が居館を構えていた、という伝承が伝わっています。村山氏は後北条氏と命運を共にしたといわれています。
また、天正10年(1582年)、戦国大名甲斐武田氏が織田信長に攻められ滅亡しますが、その際に現山梨県の上野原城主だった配下の加藤丹後守景忠が、箱根ケ崎まで逃れてきて滅亡し、加藤塚に葬られたという伝承が残っています。
瑞穂町周辺では、狭山丘陵南麓側に村山郷と呼ばれる郷村があったとされています。近世前期の絵図には、狭山丘陵南麓の現瑞穂町一帯には、村山村とあり、これが中世には村山郷に相当するものと考えられます。この地域における殿ケ谷・石畠(畑)、箱根ケ崎は、江戸時代中期の絵図には見られることから、上記集落は元は村山郷内の小集落であったようです。
対する狭山丘陵北麓には、宮寺郷があったとされ、近世前期の絵図には、狭山丘陵南麓の現瑞穂町一帯には、宮寺町とあり、これが中世には宮寺郷に相当するものと考えられます。高根・駒形・坊などの集落名は、江戸時代中期の絵図から見られることから、上記集落は宮寺郷内の西端の小集落であったようです。
(8)近世(江戸時代、約400年前から140年前)
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が天下統一し、徳川家康が三河から関東に移封になると、家康は江戸城を居城とし、城周辺の整備を進めます。江戸城は大改修され、建物外壁の造成のために大量の漆喰が必要となり、現青梅市成木で産する石灰が建材として運ばれました。
このために整備されたのが、青梅から江戸を結ぶ瑞穂町内を東西に走る大江戸街道で、箱根ケ崎村は石灰運搬の中継地となりました。
現青梅街道(下街道)でも石灰は運ばれたようです。
このころ、現元狭山地区大字富士山では新田開発が行われたようで、いわゆる近世初期の古新田集落として富士山村が成立したようです。
慶安5年(1652年)には八王子千人同心の日光勤番が始まり、同心達の往来の道として日光街道が整備されました。街道沿線上の箱根ケ崎村は、幕府より同心達の人馬継立を申し付けられ、宿場町として栄えました。同様に入間郡側の二本木村も街道沿線上の宿場町として栄えました。
江戸時代中期には、八代将軍徳川吉宗が新田開発を奨励する旨のお触を出したことから、瑞穂町域でも新田開発がさかんに行われました。長岡地区の大字長岡長谷部、大字長岡下師岡、元狭山地区の栗原新田は、この時期集落として成立しました。
江戸時代後期になると、江戸地回り経済の発展に伴い、江戸周辺の地域では江戸へ出荷して換金する目的で商品作物を栽培するようになりました。瑞穂一帯では、夏そばが栽培され、箱根ケ崎に集荷されて江戸へ出荷されたことから「箱根そば」として人気を博しました。
また、現元狭山地区、旧入間郡坊村の村野弥七盛政は、隣の入間郡宮寺村の吉川忠八温恭(よしずみ)とともに狭山茶を創製し、狭山丘陵の北麓で茶の生産が盛んとなりました。
(9)近代
明治時代
江戸幕府が倒れ、明治政府が成立すると、廃藩置県によって旧藩は廃止され、明治政府の任命した県令が直接統治する県となりました。多摩郡の各集落は紆余曲折の後、明治6年に神奈川県、入間郡の各村は熊谷県(後の埼玉県)に所属しました。
明治22年、箱根ケ崎村、石畑村、殿ケ谷村、長岡村は「箱根ケ崎村外三ヶ村組合」となります。明治26年、東京市の上水道水源確保の問題から、三多摩郡は神奈川県から東京府に移管され、「箱根ケ崎村外三ヶ村組合」も東京府の所管となりました。
一方、入間郡側の高根村、駒形村、坊村、二本木村、富士山村は明治28年合併し、埼玉県入間郡元狭山村となりました。開国後は、茶と絹糸が主用輸出品となり、狭山丘陵南麓でも養蚕や製茶を盛んとする努力がなされました。
大正時代から第2次世界大戦まで
昭和15年、箱根ケ崎村外三ヶ村組合は町政を施行し、東京府知事より町名を拝命し、西多摩郡瑞穂町となります。
太平洋戦争中の昭和18年には、東京府は都制を施行し、瑞穂町も東京都の所管となりました。
それまで、多摩一帯では、綿織物が生産されていましたが、大正年間に都市部での絹織物人気の高まると、現武蔵村山市で群馬県伊勢崎から板締め染色法が導入され、絹織物の村山大島紬が開発されました。隣接する瑞穂町域でも絹織物生産が盛んとなりました。村山大島紬は、家内制手工業の形態で生産されたため、当時瑞穂町内では、たいていの家から機織りをする音が聞こえたものでした。
(10)現代(第2次世界大戦後)
昭和28年に市町村合併促進法が成立した結果、昭和33年東京都西多摩郡瑞穂町と埼玉県入間郡元狭山村は越境合併し、現在の瑞穂町域が成立しました。
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